壊れかけのメンタル(高3)

思春期に厨房から受験生に変わる
路を探していた、大学合格目指し
早めに部活は引退、塾に通って勉強勉強
合格しなけりゃどうなるの、壊れかけのメンタル

いつか(だいぶ前)に書いたブログに、たまには更新しろ、とコメントがあった。そんなはずはない、このブログを見ている人なんて、私の友人1人だけである。しかし、正月に時間ができたので、ちょっとだけ更新してみる。写真は久しぶりに大阪の地に足を踏み入れた瞬間に目に入ってきた、おもむきのあるポスターである。東京には、海原やすよともこを知る者はいないのである(円広志も)。

受験生のメンタルは秋頃になると非常に危うくなってくる。私の場合、裏の家の犬がワンワン吠えてうるさいので、「ちょっと文句言ってくる」と行こうとしたくらいである。母親に「止めてくれ」と言われて止めたが、あの時は、なぜ止められなきゃならんのだ、と納得がいかなかった。

もし、文句を言いに行ってしまっていてたとしたら、相当揉めてこられてきてたのだと思う。何せ、当時の裏の家の主人は、以前、酔っ払いが騒いでうるさかったことに腹を立てて、ベランダから包丁を投げて警察沙汰になったくらいの人である。もし文句を言っていたとしたら、私は近所でも、あいつは勉強し過ぎて気がふれた、と評判になっていたことだろう。留まれてよかった。けれど、本当に当時は、そんなことにも気づけない程であった。

家に受験生がいると何かと大変である。私の家は長屋、縦に長くて横が狭い木造ボロ屋で、トイレが最深部にあり、私の部屋はトイレの手前であった。家族全員、トイレに行くためには私の部屋を通過しなければならなかった。みんな、神経をすり減らしていたと思う。申し訳ない。

そうは言っても家の構造は変えようがないし、貧乏も変わらない。父親は毎晩酔っ払い、猛烈にうるさいイビキ狂騒曲を奏でる。私は夜遅くまで勉強するのだが、イビキを遮断するために耳栓をするのである。オレンジ色のスポンジ耳栓は受験生としての私の必需品であった。

しかし、スポンジの耳栓は消耗品で、1週間も使うと、親父のイビキが通り抜けてくるのである。そうなってしまっては勉強どころではなくなるが、18才という若さの集中力はそれを凌駕した。毎晩毎晩遅くまで勉強し、1日の勉強時間は軽く12時間を越えていた。

しかし、やはり秋から冬に入る頃、受験生の精神はどんどん敏感になり、とうとう母親に向かって、私はブチ切れてしまうのであった。「この家は俺を合格させるつもりは無いのか!」生まれて初めて母親に反抗した瞬間であった。あの時、母親はどう思ったのであろう。

とにかく、母親は、これはたまったものではないと思ったのだろう、ワンルームマンションを借りてきてくれた。11月から3月までの超短期契約である。いたってノーマルの6畳1間、勉強するだけの部屋なので机以外は何も無かった。晩御飯の合図のため電話だけが用意された。

新しい部屋での勉強は捗った。貧乏な我が家にそんな部屋を借りる余裕は一切ないはずである。そうでなくても、高校3年の間は、予備校に100万以上つぎ込んでいるのだ。公立中学、公立高校まではよかったが、まさかの大出費。母親は大変だったと思う。合格することが私の使命であった。

後から聞いた話だが、そのアパートの契約のために、姉が金を用意してくれたらしかった。ありがとう、お姉ちゃん。その頃の勉強の合間の息抜きは、ヤングサンデー(既に廃刊)の釈由美子だったことを記憶している。

センター試験は大きな過失なく突破できた。得点率は88%、704点/800点、世界史と数学ⅡBは満点だったが、国語と英語は160点台といつも通りのしょぼい点数であった。物理が88点、なんとか踏みとどまれた。二次試験は東京で行われる。予備校に頼んで東京のホテルを予約してもらった。

受験前日のことは別ブログにて

全ての東大生の悩み

全ての東大生にとって、最もされて困る質問は「君はどこの大学?」と問われることである。これは間違いない。この問いは非常に悩みが深い。

「東大です」と答えると、何だこいつは、威張ってるのか、と思われる。そう思われるのが嫌なので、全ての東大生は仕方なく、「一応、東大です」と一度は答えるのであるが、これはこれで、何が一応だよ、と嫌われるのである。もはや手詰まり、お手上げ。

「東大です」と答えても駄目で「一応、東大です」と答えても駄目なので、全ての東大生は結局諦めて、「東大です」と、少し食い気味に言うしか無いのである。なぜ食い気味になるのかと言うと、相手に何も考える暇を与えないためである。この領域まで来られれば、もう立派な本物の東大生である一つの証拠と言えよう。

これこそが東大ブランド。

「東京大学物語」という漫画で、主人公の村上君が東京大学に落ちて、早稲田大学で仮面浪人している時に、どこの大学かを聞かれ「一応、早稲田の政経です」と答えるシーンがあったが、あれと似たような心境である。当然、その漫画でも、一応とか言ってんじゃねーよとか突っ込まれていたのであるが、東大周辺には、この手の悩みが尽きない。しかし、これこそが東大ブランドである、日本に深く根付く東大ブランド、わたしが最も欲したものだ。

わたしはこれからも自信を持って言うだろう。

「東大です」と。

「一応、東大です」とは、決して言うまい。

そして、もし周囲に、自信を持って、しかも少し食い気味に「東大です」という人がいれば、その人を「こいつは食い気味で東大です、なんて言いやがって、自信満々な野郎だな、むかつくぜ」とは思わないで欲しい。彼らなりの試行錯誤の上での、少し食い気味の「東大です」なのである。これで精一杯なのだ。

ここまで書いてから、手元のiPhoneで一応、「一応、東大です」と検索してみると、東洋経済オンラインの”東大生がいつも「一応、東大です」と謙遜する訳”という記事が出てきた。さらに”東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?”というタイトルの本まであるらしい。

何ということだ。わたしが書いた10行ほどの文章が一冊の本になるのか、その本を書いた人の想像力は凄いなぁ、と思う。

ちなみにわたしは、東大です、と答えた後には、だいたい、最低点で合格しました、と付け加えることが多い。これはなぜかというと、本当に最低点で入学した自信があるからである。東大模試も夏はC判定、秋にいたってはD判定、ただしかし、自分は絶対に合格するはず、という自信だけはあった。

でどころが謎の自信ほど怖いものは無いのである。

わたしは実際に合格したのだから。本当にラッキーだった。ラッキーでも何でもいいのである。入れればそれでよかった。ドラゴン桜の桜木先生もいつもそう言っている。入れれば何でもいいのである。入ることが目的なのだから。

東大受験前夜

今日は親父の話である。ビールが大好きで、照れ屋で、自信家で、人情に厚かった、僕の父親の話を聞いてもらおう。

2000年2月24日、大学入試の二次試験を翌日にひかえ、わたしは一人で渋谷のホテルサンルートへ向かっていた。大阪からの受験だったので、前日入りして宿泊だ。大阪から東京へ受験するパターンはその当時、大阪の公立高校では珍しいことで、事情の分からないわたしは、河合塾の教務の人に助けてもらいながら、ホテルの予約などをしていた。

受験会場の下見を済ませ、あとはどこへも行かず、部屋で勉強していた。ホテル側で受験生向けに自習室などを用意してくれていたのだが、とてもじゃないが、他のライバル受験生の顔など見てはびびりそうだったので、利用しなかった。晩御飯も、外食する勇気もなく、ホテルのたいして美味しくもない飯を食った記憶がある。あとは、ゆっくり寝て明日に備えるだけ。

そんな頃、大阪の実家では、親父と真ん中の姉(僕には姉が3人いる)が大喧嘩をしていた。普段は寡黙な父親なのだが、お酒が入ると饒舌になる。365日、毎日必ずビールを飲むので、毎日饒舌な訳である。この日も絶好調で、夜も12時を過ぎたころ、おもむろに電話の受話器を取りだしたらしい。

不審に思った姉が

「どこに電話かけるん?」

「東京(王道という言葉を発音する時と同じイントネーションで)で
一人で寂しい思いをしている息子に電話掛けるんや」

「お父ちゃん、何言うんてんのん、そんなん絶対したらあかんで、絶対やで」

「分かったわ、せーへんわ」

と言い聞かせた姉は安心して寝室へ向かったが、一抹の不安が残った。ただ、さすがにこの時間に、東大受験を控えた息子に電話するなんてことは、絶対にあり得ないと思った姉が甘かったのか。

どうしても我慢出来なくなった親父は…

(その頃東京では…)

プルプルプル

ん?電話???

「フロントです、お電話です」

「……(こんな時間に一体何だろう)」

「息子、俺はお前が一生懸命勉強してたのは知ってる。結果はどうでもいいから頑張ってきーや、それだけや。」

「うん、分かった、ありがとう」

それだけの会話でした。

まさかの夜中12時半に親父からの電話。。。

僕はその時、、、

試験が終わって大阪に帰ったら、間違いなく親父を挽き肉にしてハンバーグにして食ってやろうと心に誓ったのである。

というのは嘘で。

正直救われた気がした。

実を言うと、全然寝られなくて、焦っていた。普段、木造長屋の隙間風だらけの極寒の中で寝ていたので、ホテルの適温が暑過ぎて暑過ぎて全く寝られなかったのだ。だから、この電話は何だか本当に有り難かったと記憶している。その後、フロントに電話をして、どうしても暑いのでエアコンを切ってくれと頼んだはずだ。そして、まあまあ普通に睡眠を取ることができた。

普段は勉強について何も言わない親父。毎日ビールを飲んでは大いびきで寝るので、わたしは高校3年生の8月までは毎晩耳栓をして勉強していた。耳栓も、1週間くらい使うと効果が弱くなってくるので、しょっちゅう耳栓は買い換えた。夏休みが終わる頃、とうとうぶち切れて、この家は俺を合格させる気はないんかぁぁ!!!と爆発して母親と喧嘩してしまった。家族もこれはたまったものではない、こんなヒステリー受験生に気を遣いながら一緒には暮らせん、と思ったらしい。ということで、ワンルームマンションを借りてくれた。

高校3年の受験の時は合計で100万円以上使わせてしまったのではないかと思う。

そんないびきのうるさい親父だったけれど、本当はわたしのことを心配してくれていたらしかった。それが分かったのは正直嬉しかった。

信頼されていたんだなぁ、と。

ゆえに、これを読んだ保護者の皆さん、お子さんがなかなか自分から勉強してくれない、ということなどもあるだろうが、大切なのは信頼関係。がみがみ言うだけではやる気もそがれてしまうので、ちょうど良い距離感のようなものが見つかればいい、と思う。子どもは目標があればそれに向かって力を出せるはずなので、そのように促して、あとは全部任せちゃえばよい。

自分で決めた道だから、全力でチャレンジ出来る。全力が出せればきっと結果も付いてくる。駄目なら駄目でもいい、力を出し切って駄目だったとしても、きっとそこから何か大切なことを学べることだろう。そして、その後の新しい道も自分で切り開いて行けるはずである。そしていつか勝利を掴むことは間違いない。

結果に一喜一憂せず、頑張った子どもの姿を認めてあげることができれば、

きっと子供はそのことを一生覚えていて、ずっとずっと感謝しているよ。

東大でもオシャレ

東大生でもオシャレな人もいればオシャレじゃない人もいる。
当たり前である。
早稲田大学にもおシャレな人もいれば、おシャレじゃない人もいるし、
慶応大学にだって、お洒落な人の中にお洒落じゃない人もたまにはいるはずである。いないかもしれない。
夜9時に開いてるラーメン屋は開いてるが、閉まっているラーメン屋は閉まっている
のと同じくらい、当たり前のことである。

オシャレは、小さい頃から磨かれた感性や生まれ持ったセンスが関わるはずであり、
そうなると、東大生にとっては得意分野のはずである。彼らは頭を使う天才なのだ。

ただし、例外もいる。特に地方出身ですごい努力して勉強して東大に入学した人たちだ。
この人たちは、意気揚々と自信に満ち溢れて上京し、アルバイトの面接に行こうものなら

「自分より優れた人間を探しに来た」

とか、悲しくなるほどダサい台詞を面接官に言うような人種である。
そして、東大で見事にその高い鼻をへし折られる訳であるが、それはまだしばらく後の話で。

そして典型的な東大生とは

「自分は東大生であるが、東大生っぽくない、垢抜けたやつ」

と勘違いしている人である。

だが、本当の東大生とは、賢いし、お洒落だし、金持ちで、社交性に溢れ、いつも落ちついているのである。他人と比べて自分は垢抜けている、なんて無駄なことはそもそも考えないのである。

典型的な東大生というのは、東大生像を勝手に下方修正してイメージしているのである。
そして、勝手に下方修正したダサい仮想東大生より自分は垢抜けていると勘違いしているのだ。
これは地方出身者に多い。彼らは賢くないし、お洒落じゃないし、金持ちかどうかは人によるが、コミュニケーション能力に欠け、クラスにあまり馴染めないでいる。

そう、全てわたしのことである。

ついでにわたしは貧乏だった。
予備校の採用面接で面接官の教務の人に向かって、「自分より優れた人間を探すために東京に来た」とか言ったらしい。
本当に言ったかどうかは記憶が無いので定かではないが、どうも言ったらしい。

わたしは、高校時代は私服登校だったし東大生っぽくない垢抜けたやつだ、と思っていたが、友達たちは、わたしのことを「あいつは典型的な東大生だ」と言っていたらしい。
後になって聞いた。顔から血がでるほど恥ずかしかった。いや、火か。穴があったら入りたかった。
そういうこともあり、大学1年、2年の貴重な2年間の記憶には、わたしは蓋をしていて、あまり何も覚えていない。本当に何も覚えていない。恥ずかしすぎて過去を封印したのだ。

人間にはそういうことができるらしい。

便利で都合のいい脳ミソである。

東大卒でも木暮君

「スラムダンク」というバスケットボール漫画は皆さん、ご存じでしょう。
わたしも数多くの漫画を読んできた方であると思っているが、一番面白かった漫画は何かと問われると、スラムダンクと答える。スラムダンクは30回は繰り返して読んだ作品である。

41歳になって、久しぶりに読みたくなったわたしは、新装改編版というものを購入した。
実はメルカリで中古版を買おうとしたのであるが、スラムダンクはあまりに人気なようで、中古市場にほとんど無いのである。出現してもすぐに売れてしまうのでほとんど値崩れしない。これには驚いた。井上雄彦先生は凄い。そして大きな書店に行くと、未だに新品のスラムダンクは売っているのである。ドラゴンボール級の作品と言える。今から30年も前の作品であるにも関わらず。恐るべしスラムダンク。


そして全20巻あるスラムダンク新装改編版、新品で購入して全巻揃えて13000円くらい、大人買いだ。ただし、いっぺんに買うのは気が引けるので、5冊ずつ。まずは1巻から5巻までを購入した。そして5巻を読み終わるころ、僕は電車の中で半泣きになり鼻をすすっていた。なんて面白いんだ!5巻の終わりはちょうど、三井が安西先生に「バスケがしたいんです」というシーンで終わるのである。6巻からは三井復活ストーリー、神奈川県大会の初戦、三浦台戦が始まるはずである。6巻以降も買っとけばよかった!どうせ20巻集めるんだし!と5冊ずつ購入したことをすぐに後悔し、さらに10冊買い足した。合計15冊。

さて、われわれの世代が集まると、スラムダンクのキャラで誰が好き?とか、スラムダンクのキャラなら自分は誰だと思う?という話題が通用する。そして、桜木か流川か、ちょっと意識高い系の人は、宮城リョータか三井、あるいは陵南の仙道、海南の神あたりだ。なかなか赤木ゴリキャプテンや海南の牧という人はいないだろう。

しかし、多くの人は、木暮君である。

10人いれば、9人は木暮君である。実際に見まわしてみるがいい。
みんな眼鏡をかけているではないか。

ずば抜けた才能と能力を持つもの、自分だけのスペシャルな能力を持つもの、強力なリーダーシップを持つもの、まわりで噂になるほどの人、そんな人は滅多にいない。ただし、努力はするし、上司のサポートはするし、誰かがいなくなればすぐに自分が行く準備はしていて、そして、呼ばれればそれなりの仕事はする。

そう、それが木暮君。

特別な能力が無くても、チームの一番の努力家である。陵南の田岡監督が甘くみても、試合を決めたのは、あなどられていた木暮君の3Pシュートだった。40過ぎてスラムダンク読みなおして思うことは、

若かったあの頃より、三井の気持ちが染みること

自分は木暮君であること

そして、桜木や流川のようなエースプレーヤーは、確かに存在し、世の中を引っ張っているということ

ということである。なんだか少し切なくなるのである。

東大卒でも貧乏は貧乏

そんなことは当たり前だ。貧乏に学歴なんて関係無い。いい大学を出ても出なくても、お金を稼ぐ能力のある人は稼ぐし、能力の無い人は稼がないのである。

ここ数年の年収は、100万~300万くらい。
アパートの家賃は55000円。光熱費は約5000円。
晩御飯は自炊、たまに晩酌にビール。
自分用の服なんて、ここ数年、ほとんど買っていない。
10歳の娘と内縁の妻がいたが、去年、捨てられてからは自由気ままな一人暮らし。

幸せか不幸かと問われると、別に不幸ではないかな、くらい。
娘を奪われて生きる目的を失った時期もあったが、別に死ぬ訳ではないし、
40過ぎたけど、男なんて何となく気楽なもので。
こんなくだらないブログ書いているくらいだし。

2ch.の創始者、ひろゆきさんも言っているが、
いい年して、学歴どうたらなんて言っている人は、いい年こいてそれくらいしか人に威張れることが無い人、実績の無い人な訳である。本当にその通りだと思う。
僕もこんな年にもなって、ブログのタイトルに東大卒なんて書いて、みっともないし、僕の友達に、そんなダサい人は1人もおらへんのである。

けど、もう書いてしまった。

トウモロコシの実を食べた後の芯は捨てるだけだが、芯に歯をあててちゅーちゅー吸うと甘い汁が出る気がする。そういう気持ちでブログのタイトルに東大卒という言葉を入れたのだ。

東大なんて、毎年3000人以上の人間が入学するところ。国公立大学の中で最も受け入れ人数の多い大学なのである。つまり、だいたい同じ数の人間が卒業していく訳なので、東大卒なんて周囲に結構いるものである。よっぽど、甲子園に出た人や、宝塚歌劇団に入っていた人の方が、希少で、探すのが難しいはずだ。自分の友達の中にそれらの人は1人もいない。

20代後半の頃、3年と3ヶ月務めた会社を辞め、貯金を崩しながら、毎日友達と居酒屋へ行っていたあの頃が人生の絶頂だったかもしれない。毎日が楽しかった記憶がある。しかし、1000万円ほどあった貯金は1年ほどでなくなり、アルバイトをすることになるのである。履歴書に最終学歴東京大学と書く訳であるが、

アルバイトの面接ではことごとく落ちた。

東大卒のプータローなんて、誰も一緒に働きたくないのである。

仕方がないので、学歴詐称してアルバイトの面接に臨んだものである。幸い、東京大学の「東」と「京」の間に漢字を1文字入れると、あまたの名門私立大学が誕生するので、何枚かそれで履歴書を書いたと思う。それでも落ちた。当時は、東京にはまだ、フリーターが溢れていたのである。週5,6、毎日8時間くらい働くフリーターが。

最終的に採用されたアルバイト先(DOUTOR)は、ちゃんと東京大学って書いた履歴書で受かった。5年ほど働いた。バイトリーダーにもなった。今でもDOUTORは大好きである。わたしの命の恩人である。